「…これでいいの?九ちゃん。」
「バッチリだよ!さっすが三子ちゃん。俳優…じゃなくて女優になれるね!」
島田の出て行ったバーの厨房から十楽寺とレイがひょっこり顔をのぞかせた。十楽寺はニコニコと褒め言葉を言い、レイは小さく拍手を送っている。先程まで島田の相手をしていた三子は困った顔でタバコを吸う。
「調子良いんだから。よくわかんない嘘付くのにウチの店使わないでよね?」
「だって本当の事あの人に伝えても面倒な事になるだけだし…。こんな事三子ちゃんにしか頼めないんだよぉ。でもありがとね?」
「ヤダもう上手いんだから!」
「ぐふっ!」
上目遣いでお礼を言った十楽寺は三子に肩を思い切りはたかれてカウンターまで吹っ飛んだ。十楽寺がカウンターに腰をしたたかに打ち付けている事など気にもとめず三子は体をくねらせて照れている。
「アタシ九ちゃんみたいな童顔ホスト系ってタイプじゃないんだからね!でもそういう不意打ち卑怯よ!」
「イタタ、そっちも不意打ちは卑怯だと思うよ…。」
「あら、それよりナナちゃんは?一緒じゃないの?」
「……。」
「二人ともちょっとは心配してよー!」
騒ぐ十楽寺を無視してレイが眠るジェスチャーをしてみせた。家で寝てるといいたいらしい。
「ふふん、うちの子にあんまり夜更かしさせられないからね!先におうちに返しました!」
「なんで偉そうなのよ…。てかよく言うわね、昨日夜中に連れ回したんでしょう?」
「だって不動金縛って時間かかるからその間島田さんの気を引いててもらいたくて…。レイちゃんには難しいもんね?」
こくりと頷くレイ。変装時以外は口を一切きかないレイは島田の気を引くのは難しいと言うことで奈々美が駆り出されたのだ。
「しかし昨日はびっくりしたよねー。普通の人間なら動けないどころか息も満足に出来なくなる術なのに動けるんだもん。人と妖怪が一体化するとそこらの妖怪よりずっと強くなっちゃうんだから。これだから人に取り憑く妖怪は厄介だよ。」
「でもどうせそのおもちゃで殴って倒したんでしょ?つくづくむちゃくちゃな設定ね。」
半ば呆れ気味に三子が十楽寺のステッキを指差した。どうやら三子は十楽寺の妖怪退治という職業に半信半疑でいるようだ。
「マジカルヘヴンステッキですー!これには密教最強の武器、金剛杵と同じだけの力があるんだからね!」
「ハイハイ。それにしても人間に取り憑くなんて妖怪って迷惑な存在ねえ。」
「全部じゃないよー?中には強い欲望を持った人に取り憑いて力を増す奴がいるってだけ。島田さんは彼女に振られた怒りが原因かな?実態のない妖怪は人に憑けば実態を持てるしね。なんでか知らないけど妖怪には強い者に惹かれる本能があるみたい。レイちゃんに惹かれたのも多分そのせいだよ。だからマジカルヘヴンステッキで殴ってからは目が覚めたんだ。」
「あら、それじゃレイちゃんてなんなの?」
レイの後ろに腕を回して肩を組むとニッコリ笑って口元に人差し指を当てた。レイもその十楽寺の様子を見て真似る。
「ふふふ、それはヒミツだよ。ねえレイちゃん?」
二人の仕草を見た三子は大して興味もなさそうに一つあくびをするとタバコを消した。
「まあ良いわ。あんた達も家に帰んなさいよ。九ちゃんの所為で朝まで起きてたからアタシ眠いのよ。一回店閉めて寝たいの。」
三子の言葉に十楽寺が窓の外を見る。もう太陽が昇り出していた。ビルの間から見える空には幾重にも色を重ねた複雑で美しい朝焼けが広がっていた。
fin
]]>「アタシ達は探偵だよ。彼女の父親の白鳥健治っておっさんに依頼されて調べてたの。アンタの行動は全部尾行して調査済みだよ。まあ、途中からはパターンがわかったから退社以降しか尾行してなかったけどね。レイちゃんが毎晩バーにいたのはアンタを監視するため。でも、昨日九喜の面が割れちゃったから急遽予定変更したんだけどね。」
目配せされた彼女は一ミリもその美しい顔を崩さずに頷いた。その動作に、俺の中の何が外れた。
「…アイツが突然別れるなんて言うからだ。結婚の準備までしていたってのに他の男が出来たとか抜かしたんだぞ!裏切りだ!アイツは人形みたいに俺の言う事を聞いてれば良かったのに!悪いのは瑞乃だろ!!」
「そうやって人をモノ扱いするからじゃん。彼女から聞いたけど、ちょっと連絡取れないだけで何してたかどこ行ってたか何度も聞いたり、酷いと叩いたりしたんだってね。カレシ出来たってのは嘘で単純にアンタみたいなキモ男から逃げたかったんだって。ま、トーゼンだよね。」
「この…!子供だからって言わせておけば!っ!?」
怒りに任せて少女に掴みかかろうとしたのに、数歩進んだ所から何かに阻まれた。しかし周りを見ても何もない。苛立って無理に動こうとするが小指一本分すら進むことが出来ない。
「クソ!!なんだよこれ!どうなってんだよ!!」
「即席のケッカイだよ。真円にはそういう力があるんだってさ。そこにレイちゃんが手を加えてるらしいけど。九喜の術が完成するまで逃げられないようにね。」
そう言って少女が地面を指差した。よく見ると地面に何か白い線が引いてある。線はぐるりと俺の周りを丸く囲っていた。こんなもののせいで俺は動けないのか?ふざけてる!
「結界だと?なんなんだよそれ!大体探偵ならなんでわざわざ全部教えてくれるんだよ!」
「それは僕達がただの探偵じゃないからです!」
後ろに立って何か唱えていた男が急に声を上げた。見たこともない複雑な形に手を組んでいる。さっきまで身体を支配していた怒りが薄れ、代わりに相手が何者かわからない事と動けない状況に恐怖が全身をかけた。
「時間稼ぎありがとう奈々ちゃん!ナウマク・サウマンダバザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カンマン!」
「だから何を……っ!?」
今度は進めないだけじゃなくて全身が硬直した。それどころか声まで出ない。まるで金縛りだ。
「ごめんなさい、苦しいですよね。これは不動金縛りと言って人間ごと妖怪にかける束縛術なんです。」
「…は、……ぐ……っ!」
「今回はよくわかんない短縮術使わないんだね。」
「いやあ、人間相手だから段取り踏んできちんとかけないと。力加減間違って絞め殺しちゃったら元も子もないからね…。」
「サラッと怖い事言うなし!」
なんなんだこれはどう言う事なんだ!!目の前で繰り広げられる会話に全くついていけない。と言うか息も上手くできなくて辛い。
「おっと、人間にあんまり長い事かけておくと危険なんだった。どうしてこんな事してるか手短に教えてあげますね。貴方は妖怪に取り憑かれてるんです。本来白鳥さんからは事を公にしたくない為に僕達に貴方の素行調査させ、証拠を突きつけて交渉するつもりだったそうです。僕達も初めはそのつもりで尾行してました。でも、行きつけのバーでレイちゃんを見つけてからの様子を知って貴方が妖怪に憑かれてると気づきました。」
「……。…ど…いぅ…こと、だ……?」
「驚いた。術にかけられてても喋れるんですね。レイちゃんを見つけてから貴方は毎晩レイちゃんに会う為にバーに通ってましたね。その時間はどんどん長くなり、それに比例して彼女への嫌がらせも減った。おかしいと思いませんか?今まで其れ程執着していた相手を忘れて見ず知らずの人間に心奪われるなんて。」
「そ、れは……彼女が……美しい…から…。」
男が何を言いたいのか、俺はもう気づいていた。しかし、気づきたくないでいるもう一人の自分が声を絞り出す。
「まるで火に寄ってくる虫のように。現世の妖怪は弱いからより強い存在に惹かれる物がいるんです。力を取り込んで強い存在になろうとね。人間に憑いた妖怪は宿主と一体化しながら操り、近寄ろうとする。今の貴方みたいに。」
何を馬鹿な事を言うんだ。俺は、俺は彼女が欲しいだけだ。彼女が俺の理想とする人形の美しさを持っているから。前の恋人の事など忘れるくらいに彼女に惚れているだけだ。
「そこで僕達のもう一つの仕事、妖怪退治をしてあげようと思いまして。普段なら百万くらいとるんですが、今回は出血大サービス。無料で貴方から綺麗さっぱり妖怪を取り除いてあげますよ!」
黙ったまま無機質な瞳で俺を見つめる彼女に手を伸ばす。身体が悲鳴をあげるが構わない。俺は、俺は…。
「っ!やばい、もう完全に一体化しかけてるのか!奈々ちゃんは危ないから車に戻って!」
男の声に少女が車の方に駆けていくがそんな事は関係ない。彼女以外のすべてがどうでもいいのだ。動かない身体と訳がわからない結界に阻まれて上手く近寄れない俺と彼女の間に男が立ちはだかった。
「邪魔をするなああああああ!!」
獣の様な咆哮。いや、俺の声だ。およそ人間が出せるとは思えない様な恐ろしい声に俺は戸惑った。一体俺に何が起きているんだ。目の前の男が先程とはうって変わった獣の様な鋭い眼光で俺を見据えるとあのステッキを振りかざした。
「あまねく諸仏に帰命し奉る。金剛界の主尊大日如来よ、独鈷、羯磨、摩尼、蓮華と共に光明を差し伸べたまえ!」
ステッキが輝き始める。一体どんなトリックなのか、直視できない眩しさだ。暗闇の中で突然光で照らされたせいか光に対して異様に嫌悪感を覚える。しかし、ここで引き下がる気にはなれなかった。俺は訳も分からずただひたすら彼女を求め、目の前の男を突き飛ばそうと腕を伸ばした。男に手を伸ばした時、自分の腕に愕然とする。
「なんだ…っ、これ……!?」
これは本当に俺の腕なのか。いや、人間の腕なのか。本来の二倍にも膨れ上がり、いく筋もの青筋が走ってまるで腕じゅうにミミズ腫れが出来ているようだ。なのにまるで痛みも重みも感じず、それどころか普段より感覚が鋭敏になっている気がする。これじゃあまるで…。
「ばけ…もの……。」
「大丈夫です。すぐに戻りますからっ…!」
腕に気を取られた瞬間、左側頭部にガスッという衝撃を感じたと共にまるで何かが体から消えたように力を抜け、俺は地面に倒れこんだ。脱力感と共に薄れていく意識の中で、俺を見つめる灰色の瞳だけが見えた。
「お兄さーん。ちょっと、お兄さんてば!」
上半身を揺すられる振動と男性の声にハッと目が覚めた。あのまま外で寝ていたのか?周りが薄暗いことに気づいて自分が屋内にいると気づいた。状況を知る為に声の主を見ると筋肉隆々の男性がドレス姿で立っていてぎょっとする。
「ちょっと、今私の姿見て引いたでしょ!」
「あ、い、いえ…。…あの、昨日の記憶があまりないんですが、ここはどこでしょうか…?」
「あら、本当に覚えてないのね。俗に言う新宿二丁目よ。このお店はアタシが経営してるバーなの。」
ショートボブのその男性、いやそのニューハーフはカウンターに戻るとタバコに火をつけながら状況が飲み込めない俺をみて昨日の俺の様子を語り始めた。
「お兄さんたら、ウチに来た時は既にべろべろでね、アタシ止めたんだけど聞かずに浴びるようにお酒飲んで潰れちゃったのよ。タクシー呼んであげようと思ったんだけど一人だし、住所聞ける状態じゃないから仕方なくここで休ませてあげてたの。」
「は、はあ…。」
ニューハーフの語る内容と俺の記憶は明らかに違う。確かに身体は怠いし頭も痛いが酒を飲んだ覚えは無い。昨日はバーに入ろうとした所をあの妙な男に止められて、河川敷に連れてこられて俺の秘密を暴露された筈だが…。それに結界とか金縛りとかで体が動かなくなって、腕が…。そこまで思い出して自分の腕を見た。そこにはなんの異変の痕跡もない。よく考えれば俺の記憶の方が余程夢みたいだ。どこかで飲んで記憶が飛んだのだろうか。
「尋常じゃない様子だったわよ。いったい何があったの?失恋?」
その言葉に彼女の姿が浮かんだ。まるで作り物のような美しい彼女。だが、昨日まであんなに頭を支配していたその存在は水に滲ませたようにぼんやりとしてしまっている。突然口もきいたこともない、ただバーで見かけただけの人間に恋い焦がれていた事が馬鹿馬鹿しくなった。妙に可笑しくなって苦笑を返すと彼の言葉に頷いた。
「ええ。どうやらそうみたいです。でも急に馬鹿らしくなっちゃいました。ご迷惑おかけしました。」
「そう、良かったわ。人生そういう時もあるわよね。さ、もう始発が出る時間よ。一旦帰ったら?」
「はい。ありがとうございます。あ、お代は…?」
「いーのよ。今日は初回って事で特別ナシにしてあげる!」
「え、でも…。」
「辛い時はお互い様!その代わりまた来て頂戴。次は頑張りなさいよ!」
「あ、ありがとうございます…。」
ゾッとするウインクをされ、申し訳ない気持ちになりながらも承諾してしまった。なんて心の広い人なんだろうか。押し出されるようにして店を出ると、白んだ空に照らされた見慣れぬ風景が広がっていた。飲みすぎたのに妙に早朝の空気が心地よく感じる。朝日に目を細めながら俺は駅に急いだ。
今まで幸せな気持ちで通っていたバーまでの道のりが、今日は酷く険しく思える。あれ程望んでいた彼女からの視線。それは思っていたよりもずっと虚しいものだった。それなのにまた今日も彼女の元へ通う俺は被虐性愛者かもしれない。…なんて、ただ単純に諦めきれないだけだ。必死に自分を慰めながら歩く。初めは声をかける気もなかったのだ。その頃に戻ったと思えばいいじゃないか。俺はただ彼女が眺められればそれでいい。自分にそう言い聞かせながらバーのドアに手をかけた時、不意に肩を叩かれた。
「お兄さん、ちょっといいですか?」
若い男の声に振り返ると、昨日見たあのホスト男がニコニコしながら立っていた。驚いて反射的に身を引くと、男は慌てて手を離した。
「ああ驚かせちゃってごめんなさい。」
「な、なんですか貴方。何の用です。」
ほぼ初対面の人に随分とつっけんどんな態度をとってしまった。だがこの男はいけ好かない。俺に何の用だ?こんな見た目だ、昨日のことで因縁でもつける気だろうか。
「いやあここだとちょっと言いにくい話でして…。ついてきてもらえませんか?」
「は、はあ?私はこれから用事が……」
「ああ、レイちゃんならバーにはいませんよ。」
男の確信を持った言葉に手が止まる。まるで罪が暴かれた犯罪者のように全身から汗が噴き出した。
「な、なんの事ですか。俺は別に…!」
「それ以外の用事なんてないですよね?毎晩仕事が終わるとすぐにバーにやって来てはレイちゃんの前に座り、2時間以上ずっと見つめながら酒を飲んでるじゃないですか。」
ばれた。ばれたばれたバレタ!全身がカッと熱くなり急激に冷える。こいつは全部知ってる。人通りの少ない小さな路地で男は懐に手を入れながら微笑んだ。
「ついてきてくれますよね?」
その意味あり気な動作に俺は懐の中に凶器があると確信した。びびった俺は頷くことしかできなかった。
車に乗せられて三十分。民家もなく、誰もいない河川敷に連れて来られた俺はこの世の終わりの様な絶望感に晒されていた。ホストだと勝手に思っていたこの男、ヤクザだったらしい。ヤクザの女に手を出した愚かな男が拷問されるというのはドラマだけの世界だと思っていた。
「そっちに歩いてもらえます?」
「は、はい…。」
「あれ?なんか急に大人しくなっちゃったね。車酔いしました?」
こんな状況でなにを冗談言ってるんだこいつ。ふざけた奴だと思うがそこが余計に恐ろしい。素直に謝ってなんとか逃げ出さなくては。
「…あの、ホント申し訳ありません。ただ見てただけなんです。もう彼女には二度と近寄らないんで、許してもらえませんか?」
「え?ああ、心配しなくても二度とそんな気起こらない様になりますよ!大丈夫です!」
笑顔でVサインを出すこの男が悪魔に見えた。あくまでただで返す気はないという事だろう。いや、そもそも生きて返してもらえるのだろうか。死刑台に自ら向かう様にふらつきながら歩いていると、薄明かりの中誰かが立っているのが見えた。二人いる…一人は背が小さい。もう一人は、……彼女だ。
「(暗くてほとんど見えないのに、なんで俺はわかるんだ?)」
「九喜、準備終わったよ。」
「ありがとう奈々ちゃん!助かったよ~。」
「い、今の声…子供?!なんで子供が…。」
「子供じゃない!高校生だし!」
「まあ詳しい事は後で!」
立ち止まった俺の背中を男が押したせいで草むらに倒れかけた。状況がわからないでいる俺はそのまま前に二、三歩踏み出した位置でなんとか頭を整理しようとする。男は俺を放って地面に何かすると、彼女と少女の元に駆け寄ったようだ。
「よくすんなりついて来てくれたね。」
「うん。こうやってジャケットからミラクルヘヴンステッキを見せたらね。こういうの一回やってみたかったんだ~。」
ヘラヘラしながら男は俺にしたように懐を探ると、小さなおもちゃらしき物を取り出し、その先端を引っ張てステッキ状にした。ようやくこの状況に目と頭が慣れた俺は、どうもこれがヤクザによるリンチではないと気付いた。先程までの緊張が一気に解け、同時に怒りがふつふつと湧き出す。
「バッカみたい。」
「そんな事言わないでよー。それじゃ、手筈どおりにお願いね。」
「わかってる。」
「おい!こんな所に連れてきて一体なんの真似だ!子供の悪ふざけにしては度が過ぎるんじゃないか!?」
「あららもう元気になっちゃった。じゃあ頼んだよ奈々ちゃん!」
男は少女の肩をポンと叩くと数歩後ろに引いて何かつぶやき出した。異様な雰囲気に少し気圧されるが、ここで怯んだらこいつらの思う壺だ。
「ナ…ンダ……バザラ……」
「な、なにブツブツ言ってるんだ?今なら警察には言わないでおいてやる、早く元いた場所に帰してくれ!」
「ケーサツに言われて困るのはアンタの方なんじゃないの?この変態。」
「な!?君!大人に向かってなにを言うんだ!俺はただバーで彼女を見ていただけで…。」
「彼女?…はあ。」
少女と彼女が顔を合わせ、二人とも呆れた顔をした。何が言いたいんだこの二人は。
「そっちじゃなくて。おっさん最近まで白鳥瑞乃って女の人をストーカーしてたでしょ。」
「えっ……!」
「毎晩彼女が帰宅する時間に家の前うろついたり、留守電に悪口吹き込んだり。何度着拒しても直ぐに新しい携帯でかけてきてさ、マジどんだけ暇なんだよおっさん。」
「な、…なんで知ってるんだ!お前ら何もんだ!?」
『昨年、ストーカー被害件数がストーカー規制法制定以来最高値を記録しました。今年に入ってからもストーカー殺人が四件も起きている現状です。ストーカーの実態とは一体どんなものか、本日は犯罪心理学専門の先生をお招きしてお話をお聞きしたいと思います。……』
「ストーカーねえ…。それより島田、今日の合コンどうする?」
「……。」
「…島田、おい聞いてるか?おーい。」
「…え、ああ。悪いなんだっけ?」
いけない、ぼーっとしてしまった。慌てて携帯から顔をあげる。突然鮮明に聞こえ始めたテレビの音と同僚の声に昼休憩中だった事を思い出した。最近はこういう事が増えてきた。彼女の事が気になって仕事も手につかないのだ。
「なに携帯みてにやけてんだよ。新しい彼女?」
「いや、まだそういうんじゃ…。」
「まだって事はイイ感じって事かよ!んだよ彼女と別れて落ち込んでるって聞いたから合コンセッティングしてやったのに!」
「悪いな。今はそういうのいいよ。今日も早めに帰るから。」
合コンで適当な女性を見つける気にもならない。早く退社してあのバーに行きたかった。まるで麻薬中毒者だと自分でも思う。密かに盗み見て買った彼女とお揃いの携帯を見るだけでにやけてしまうほど重症だ。と言っても、彼女の連絡先どころか俺の通話履歴には殆ど同じ人間の名前しか載っていないのだが。しかし、もう半月ほど彼女に逢う為だけにバーに通っているというのに未だに声をかけられない自分に嫌気がさしてくる。
今日こそは何かアクションを起こしたい。せめて目を合わせるだけでもいい、彼女に認識されたい。バーに着くとまずは彼女がいる事を確認し、気付けに一杯目を飲む。それからなんて話しかけようか俺は頭の中でシミュレーションを始めた。半月前に見かけてからずっと気になっていて…ってのは気持ち悪いな。昼間のニュースを思い出して思い留まる。ここは軽く君、一人?なんてのはどうだろうか。…少し軽過ぎる気がする。いや、でもここは少し軽いくらいの方が相手も変に警戒しないかもしれない。よし、言え、言うんだ自分。
「……すいません、彼女と同じものをお願いします。」
結局俺の口から出た言葉はそれだけだった。俺の勇気は所詮そんなものなのか。自己嫌悪に浸りながら、僅かに彼女が俺の事を気にしてくれる事を期待して彼女の様子を伺うと、彼女よりもバーテンダーが怪訝な顔をしてこちらを見た。
「本当にこちらでよろしいので?」
「え、は、はい。」
男の俺がカクテルを頼むのがそんなにおかしいのか?状況がわからずにいると、バーテンダーがさらに続けた。
「ノンアルコールのオレンジジュースですけど…。」
翌日、退社した俺は一目散にバーに向かう為新宿行きの電車に乗り込んだ。昨日の事を思うと足を早めずにはいられない。あの時俺は確信した。彼女はこのバーが気に入って連日通っていたわけではないのだと。毎日彼女が頼んでいたのはただのジュースだったのだ。そして考えれば彼女は決まって俺よりも前にバーにいて、俺よりも後にバーを出ている。毎日二時間以上あのバーでひたすらジュースだけ飲んでいるという事になる。きっと誰かを待っているのだろう。それもあのバーでなければならない理由があるんだ。ヤバい仕事という事も考えたがそれ以上にそれだけ彼女を待たせる相手がどんな人物か知りたくてたまらない。胸が締め付けられるような息苦しさに襲われながら俺はバーに入った。
「いらっしゃいませ。」
毎日来ていて流石に覚えられたらしく、何も言わずともウイスキーのロックが前に出された。俺は泥酔しては話にならないので何時もよりペースを落としながら酒を飲む。俺がどんな気持ちでいるかも知らず、彼女はいつも通り美しくそこにいた。ただ花を愛でるように彼女を見つめてきたが、これからその彼女の別の面を知れるのだ。嬉しさと共に、あの人形のような美しい顔に別の表情が浮かぶ事に悲しみを感じ、そして彼女に会うであろう人物に強い怒りを感じた。感情の激流に飲み込まれないように酒で自分を抑えながら、ひたすらにその時を待つ。
やがて十一時を回った頃、バーに一人の男が入ってきた。来客の度逐一確認していたが、その男は迷いなく彼女に近づいた。そして今まで一切人に興味を示さなかった彼女が男の方を向いたのだ。来た!男は笑顔で彼女の横に腰かけた。
「レイちゃんお疲れ様!連日ごめんね?この仕事終わったらなんでも買ってあげるから!」
「……。」
こんな男を彼女は毎晩待ち続けていたというのか。男は二十代半ばに見えるが、黒いワイシャツにヒョウ柄のスカーフをしてヘビ柄のズボンをはいていた。顔はそこそこだが、容姿といい言動といいホストだろう。軽そうな話し方でいやに馴れ馴れしく、二人が気のおけない仲であることは明白だ。嫉妬に頭が沸騰しそうになるのをなんとか抑え、頭を整理する。そうだ、有益な情報も得られたじゃないか。男は彼女を『レイちゃん』と呼んだ。本名か、あだ名か。それだけでも大きな進展じゃないか。呼ばれた彼女は少し迷惑そうな顔で男を見ている。
「もーなんでそんな顔するの?あ、お腹空いたの?じゃあ早く帰ろ!レイちゃんの夕飯用意してあるからね。今日は僕がごはん炊いたんだよ!」
「……。」
お前じゃなくて炊飯器が炊いたんだろ。何処と無く不安そうに眉をひそめる彼女に誇らしげな顔で自慢している男を怒鳴りたい。…と言うか、二人は同棲しているのか。
「え、いらないの?信用ないなぁ…。じゃあ何?」
「……。」
「どうしたの?……うわ!れ、レイちゃん帰ろう!お勘定お願いします!」
崖から突き落とされたような絶望に頭が真っ白になっていると、彼女が男の袖を引っ張りながら俺を見た。それに気づいた男は俺の方を見るとひどく驚いた顔をして慌てだした。そんなに酷い顔をしているのか。この場にいる気にもならず、俺はそっと席を立ちトイレに入った。
「……ひでえ顔。」
鏡には、酒を飲んでいたというのに顔面蒼白の落ち窪んだ目をした男が映っていた。なるほど、こんな顔に凝視されていたら逃げたくもなる。自傷気味に笑ってトイレを出ると、二人の姿は既になく、後悔と虚無だけが残っていた。
その人は美しかった。ただただ美しかった。
彼女との出会いは、乗り換え地点の新宿でバーに入った時だった。歓楽街から少し外れた小さなこのバーはうるさい若者も居らず、日頃の仕事の疲れを癒すには絶好の場所だ。その日も同僚と別れ、荒んだ心を安酒で潤すつもりだった。だが、店に入った瞬間その思いは吹き飛んだ。彼女の姿を目にしたからだ。真っ白な陶器のような肌に、鼻筋の通った整った顔立ち。ダイヤモンドを擬人化したらこうなるのだろうか?美しいセミロングの髪の隙間から覗く灰色の瞳は長い睫毛に縁取られ、照明の明かりが反射してキラキラと輝いている。その美しい姿に圧倒され、俺は危うく目的を忘れてしまいそうになった。決して誇張表現ではない。実際、カウンターに座った彼女の横顔を見ただけで数秒は動けずにいたのだ。その日から俺は別の目的を持ってバーに通うようになった。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「ウイスキー。ロックで。」
今日も彼女に逢う為にバーに入る。彼女はいつもカウンターの定位置に座っているから、俺は楕円形にカーブしているカウンターの、彼女から少し離れた席に座る。ここからだと自然に彼女が目に入るのだ。適当にグラスを見つめるふりをして彼女の顔を伺う。彼女は端正な冷たい表情を一ミリも崩さない。美しい。まるで人形の様に完璧だ。いや、並みの人形だって彼女には敵わないだろう。俺は彼女を肴に酒をあおった。自分でも異様なのはわかっていた。見知らぬ女性を盗み見ながら酒を飲むなんて。三十年生きてきて、結婚を考えた女性がいた俺でも、一言も話した事のない相手を見ながら酒を飲むというのは初めてだ。それだけ彼女が美しく、特別であるという事なのか。
八時過ぎ、今日もバーに向かう。最初はただ彼女を見つめるだけだったが、最近は彼女がどんな人間なのか考える様になった。考えるというよりも妄想に近い。どこで何をしているのか、どうして突然現れ、そして毎夜このバーに通う様になったのか想像するのだ。容姿から初めはどこかの高級ホステスかと思ったが、ならこの時間にバーにいるのはおかしい。それに彼女はいつも黒い長袖に黒いズボンを履いていている。素肌が見れなくて残念、いやともかく水商売の女ではないのだろう。なら昼間の仕事か?モデルかもしれない。でもそれにしては変わった格好だ。渋谷や原宿系というか、どこかのヴィジュアルバンドの衣装をもう少し落ち着けた様な…。ともかく目立つ格好だ。一般的な職業ではなさそうだ。ではなぜ突然このバーに現れる様になり、それ以来毎晩ここに通うようになったのだろう?いつも一言も口を利かず、ただ淡々とカクテルらしき物を飲みながら時折携帯に何か打ち込むだけで、誰かに会いに来ている様子もない。…いや、しかし俺も一言も口を利かないでただ彼女を眺める為だけに通っているじゃないか。女性が一人で毎晩バーに通うなんて妙だ。もしかしたらナンパ待ち?なら俺にもチャンスはあるだろうか。……いや、何を考えてるんだ。そんなわけあるはずない。彼女からそんな下品な雰囲気はない。単純に店を気に入っただけかもしれないじゃないか。しばらく逡巡している間にいつの間にかグラスが増え、気づけば10時。このままでは終電を逃してしまう。俺は急いで勘定を済ませると店を出た。
「……。」
翌日、日課の電話をかけ終えてからバーに向かう。この携帯も古くなったから新しくスマホに変えようか。そう思ってからふと彼女の使っていた黒いガラケーが浮かび、やはりもう少しスマホデビューを見送ることにした。
『新宿区を中心に起きた原因不明の異常気象と地震は、16時現在完全に収まったようです。新宿区全体を覆っていた巨大な積乱雲は完全に消滅し、黒い雨も止みました。解説の林田さん、今回の黒い雨についてお願いします。』
『はい。まず、気象庁によりますと、黒い雨の主成分は未だ調査中ですが、少なくともウランやセシウム等の放射性物質は含まれておりません。皆様ご安心下さい。雨が黒くなった原因としては、おそらく積乱雲発生の際の上昇気流によって地上の塵や土が巻き上げられ、それらが混入したせいではないかと。とにかく非常に稀なケースでして……』
「いやあ、人間はわからない事ほど無理矢理理屈をこねたがるよねー!あれは地獄の雨だよ!人体に影響はないけど、現世の物質とは照合できないのに。」
「他人事みたいに言ってんな!どっかの誰かさんのせいで外壁がどろどろになってんだから掃除して来いよ!」
数時間後、袖を巻くって掃除道具を持った奈々美が、のんびりとリビングでテレビを見ている十楽寺に怒鳴った。出掛けていたので窓は閉じていた為、部屋の中は無事であったが、窓も外壁もベランダも泥汚れで酷い有り様だった。
「えーそういうのは掃除が得意なレイちゃんに任せて一緒にテレビ見よーよ~。」
「アンタの所為なんだからちょっとは手伝えよ!それにレイちゃんはアンタの部屋片付けてる。」
「えー!なんでレイちゃんが片付けてるの!?それこそ僕がやるよ!」
「九喜がやったら一生綺麗になんないじゃん!汚いものは全部処分してって言っといたから。」
「そんなこと言って大事なものまで捨てられたら困るもん!…じゃなくて、ゴキブリ捕まえてくれたんだからレイちゃんはゆっくり休ませてあげなくちゃ!」
「本音だだ漏れじゃんか!心配ならさっさと壁掃除してから見れば?」
「えーじゃあ奈々ちゃんも一緒にやろーよー!」
「アンタはベランダ掃除だし!てかくっ付くなキモい!セクハラ!」
十楽寺の部屋のゴミをまとめていたレイは、リビングから聞こえてくる二人の騒ぎ声をきいて汚れた窓の向こうの空を見上げた。先程のこの世の終わりのような雲は消え去り、平和で美しいオレンジ色が広がっている。その夕焼けを眺めながら、お土産のお菓子は夕飯の後にしようと考えた。
「お前の部屋が汚いせいだし!ゴキブリ相手に黒い悪魔とかキモいんだけど!」
そう、彼らが大真面目な顔をして対峙しようとしてたのは日本で最もポピュラーかつ嫌われている害虫、通称ゴキブリなのである。十楽寺は自分の頭をさすりながら奈々美の方へ振り返った。
「もう、叩かなくてもいいじゃない!そういう奈々ちゃんこそゴキブリが怖くて逃げて来たくせに!」
「は、はあ?!違うし!別にコンビニ行きたかっただけだし!」
抗議する十楽寺に更にくってかかる奈々美。下らない言い合いを静観していたレイがふと十楽寺の部屋の前を指差した。黒い塊が十楽寺の部屋の扉に張り付いている。レイの指差す方向を見た奈々美が悲鳴をあげてレイの後ろに隠れた。
「きゃあああいるいるいる!早くなんとかして!」
「もう、最初からそう言えばいいのに。素直じゃないんだから!」
そう言うと十楽寺はおもむろに鞄からあのおもちゃのステッキ『マジカルヘヴンステッキ』を取り出した。レイの後ろから奈々美が抗議の声をあげる。
「ちょっと!まさかそれで叩き潰す気!?それはマジでありえないから!」
「まさか!そんなグロい事しないよ!」
「じゃあどうすんの?」
「ふっふっふ…。密教の秘儀、真言の力を見せてあげるよ!」
怪訝な顔をした奈々美と無表情のレイをよそに、十楽寺は得意げな顔で部屋に近づく。
「真言ってのは願いを叶えてくれる呪文みたいなものなんだ。家内安全から怨敵調伏まで、用途に合わせて沢山の真言があるんだよ。「~ソワカ!」とか聞いた事ない?」
「知ってるけど、それって妖怪とか姿のないものに使う奴じゃないの?」
「普通はね。でも密教は現世利益がモットー、つまり現実の生き物にも効果があるのだ!喰らえナウマク・サウマンダ・バザラダン・カン!!」
真言を唱えながら十楽寺がステッキをゴキブリに向ける。するとステッキの先から小さな雷のような火花が弾けた。しかし身の危険を感じたのかゴキブリの方が一瞬早く逃げる。
「チッ!」
「外してんじゃん…。つかそれどういう構造になってんの?」
「フフフ、それは修行をした密教僧にしかわからないのです!ってそれよりどこ行った?!」
「……。」
未だ玄関から動けない奈々美を後ろに庇いながらレイが部屋の中を指差した。
「僕の部屋に入ったの?最悪ー!」
憤慨しながら十楽寺は自身の部屋に踏み入った。レイと奈々美もそっと部屋の入り口から顔をだして部屋の中を伺う。
「うわ…。」
「……。」
そこは惨状というに相応しかった。床や机にブランド物の服が乱雑に放置されているだけでなく、カップ麺や飲み物の容器が適当に積まれている。しかもベットの上には食べかけと思われるポテトチップの袋が口を開けた状態で置かれていた。日頃の十楽寺の口ぶりから覚悟していた二人でさえ顔が青ざめた。
「神聖どころか魔窟じゃん!ゴキブリ飼う気かよ!」
「いやあ夜お腹空いてついついお菓子食べちゃうんだよね~。でも片付けるの怠いし。朝は時間ないから洋服出しっ放しにしちゃうしー。いてっ!」
「クズ!」
「いやいやそれ程でもないよ~。」
「褒めてねえし!片付けろよバカ!」
レイに叩かれ、奈々美に暴言をぶつけられても笑顔を絶やさない十楽寺。苛つきが収まらない奈々美が更に文句をぶつけようとすると、突如部屋にカサカサという音が響いた。
「…っと、お説教は後で聞くよ。今はコッチが先だ、ナウマク・サウマンダ・バザラダン・カン!」
バチバチ!と凄い音がしてカップ麺の容器が吹っ飛ぶ。煙をあげるカップ麺の裏から黒い塊がササッと逃げ出した。すかさずもう一撃与えるがゴキブリは華麗に小さな雷を避ける。
「チッ…。流石三億年前から存在してるだけあるな。」
「ノーコンかよ!」
「ち、違うもん!あいつが早いだけだよ!」
「もういいから普通に捕まえて捨ててきてよ。」
奈々美とレイの冷めた目が逆に十楽寺に火をつけた。ぷくっと頬を膨らませて二人を睨む。
「何その目は!いいもん、呪術でも僕が凄いって事奈々ちゃん達に認めさせてみせるから!ナウマク・サウマンダ・バザラダン・カン!」
バチバチ!
「ナウマク!サウマンダ!バザラダン!カン!」
バチバチ!
「ナウマク!」
バチバチ!
「死ねこの野郎!」
ガス!
「最後物理じゃん!」
更にめちゃくちゃになった部屋の真ん中で肩で息をしながら十楽寺はステッキを降ろした。当の害虫は元気に触覚を動かしながら正面の壁に鎮座している。
「頭に来た…。不動明王呪じゃ物足りないってわけ?いいよ、なら大元師法(たいげんほう)で勝負だ…。」
「いや九喜がノーコンなだけだし!てか何それ?」
ブツブツと呟く十楽寺を見て、奈々美の質問に答えられそうにないと判断したのか、レイが手前の本棚から『毎日密教』という雑誌を取り、あるページを開いて見せた。
「たいげんすいみょうおう?」
そこには『最高位の明王、大元帥明王に祈願する国家鎮護、敵国調伏の密教最高秘儀!かの有名な文永の役や弘安の役、更に日露戦争の際も用いられ、我が国を勝利に導いた最強の呪いです。朝廷以外では使ってはいけない最高法術なので、無闇に使用しない事。』と書かれている。読むうちにみるみる部屋の中が暗くなり、不思議に思って外を見ると、見た事もないような重たい暗雲が渦を巻きながら集まってくるのが見えた。次いで黒い雨が降り、暴風が窓をけたたましく叩く。町の人々も悲鳴をあげながら建物に駆け込んで行くのが見えた。奈々美の顔が青ざめる。
「最強の呪いって…。ゴキブリ相手に国ごと滅ぼす気かよ!ちょっと九喜!」
地震も始まったのか、小刻みに振動する部屋の中で経を唱える十楽寺に訴えるが、十楽寺は歪な笑顔で全く聞く耳を持たない。
「ゴキブリなんて害虫は国家の敵…否、人類の敵!種族ごと滅してやる!」
「ゴキブリだけじゃすまないんだけど!今すぐやめて!」
部屋の中はポルターガイスト現象でも起きているのか物が飛び交い始め、十楽寺の立っている所を中心にまるで嵐の中のように更にめちゃくちゃになっていく。流石に当のゴキブリも危機を察知したらしくパッと茶色の羽を開いて扉に向かって飛び立った。奈々美が今度は違う意味の声をあげる。
「逃げてるし!てかこっち来るー!!」
奈々美はレイを盾にするようにしがみ付いた。しかし、レイの背中の向こうでバチバチという羽音が一瞬大きくなって消えた。レイが自分の横を通り抜けようとするそれをどこからか出した割り箸でつかむとそのままコンビニ袋に入れて口を縛ったのだ。その間わずか二秒の出来事である。
「う、うわ!」
理解するのに数秒遅れて奈々美がコンビニ袋を持つレイから離れる。レイはコンビニ袋をぶら下げたまま未だ儀式を続ける十楽寺に近寄り軽く頭を叩いた。
「あいた!ちょっと君達さっきから叩きすぎ…ってそれ!レイちゃんが捕まえちゃったの?ズルい!」
「いやズルいとかじゃないし!いいからこの状況なんとかしろよバカ九喜!家が壊れる!」
築何十年も経っているビルは外の暴風雨と地震でガタガタと激しい音を立て、今にも崩れてしまいそうに思えた。奈々美の言葉に、十楽寺は天井の揺れすぎて落ちそうになってる照明を見つめて呑気につぶやいた。
「どうせならこのまま続けて日本中のゴキブリ滅しちゃったらもう奈々ちゃんも怖がる事ないんじゃない?」
「人間も死ぬから!ふざけてないでさっさとやめろ!」
「はー!疲れたー!五菱はやっぱり居心地悪いよね。八重さんも相変わらずな性格だし。ねーレイちゃん?」
新宿に戻った十楽寺とレイはゆっくりと家の方へ向かって歩いていた。
「毎回祈祷の場に立ち会おうとするし、迷惑しちゃうよ。執念深くて勘がいいなんて、こっちからしたらこれ程厄介な相手はいないよねー。」
「……。」
「まあでもアレだけで三百万も貰えるならラッキーかな?奈々ちゃんへのお土産も買ったし、帰ったら三人でお茶にしようね!」
こくこくと相槌を打つレイに笑顔で一方的に話し続ける十楽寺だったが、ふと目の端に見慣れた巻き毛を捉えた。レイから目を離して正面を向くと、家まであと数メートルという所だ。その道を奈々美がこちらに全速力で駆けて来る。
「あれ、奈々ちゃん?わ、もしかして外までお出迎え?僕感動だよ!さあ、僕の腕の中に飛び込んでおいで!」
真っ直ぐに突っ込んでくる彼女に向かって腕を広げる十楽寺。しかし、奈々美は十楽寺の横すれすれを駆け抜け、隣に立っていたレイに勢いよくしがみついた。一瞬の間、間抜けな体制で立ち尽くしたままだった十楽寺が苦笑いをしながらため息をつく。
「ですよねぇ…。」
「何がですよねだ!遅いんだよ帰ってくるのが!!」
「いつも通りのつもりだったんだけど…。あ!もしかして僕たちがいなくて寂しかったの?もう、可愛いとこあるなあ!」
「ちがう!都合の良い解釈すんなバカ!」
「えへへ、ツンデレなんだから!」
十楽寺は納得行かなそうな顔をしている奈々美の頭を優しく撫で、家に向かって歩き出す。レイも奈々美を連れて十楽寺について行こうと足を踏み出すが、思い切りホールドされていて前に進めない。疑問に思って下を見ると、奈々美が未だにしがみ付いたまま俯いている。促すつもりで軽く肩を叩くが、一向に奈々美は顔を上げない。二人の様子に気付いた十楽寺が振り返った。
「どうしたの?早く帰ろうよ。こんな所で突っ立ってたら目立っちゃうよ。」
「…。」
尚も口を閉ざす奈々美の様子に、十楽寺はゆっくりと近寄ると中腰になって視線を合わせて優しく微笑む。
「…何かあったの?」
「……。出たんだよ、アイツが。」
奈々美のその言葉に十楽寺の顔色が変わる。その一言で全てを悟ったのか、十楽寺が今までになく神妙な面持ちで家を仰ぎ見た。
「そっか…。わかった。」
短く答えると、十楽寺はそのまま家に向かって歩き出す。レイも未だ不安そうな顔をした奈々美を連れて十楽寺に続いた。
彼らの家は事務所の上、地上二階である。古いビルの中だけを改装したもので、内装はアパート二部屋分を繋げた様な広さだ。一行はまるで強敵を前にした様に厳しい面持ちで二階へ上がり、我が家の扉の前に佇む。家主である十楽寺が重々しく扉を開け、ゆっくりと玄関に足を踏み入た。二人もその後に続く。しかし部屋の奥へは行かず、三人は玄関で固まったままだ。十楽寺がじっと部屋の中の気配を探る。
「……。…物音はしないか。奈々ちゃん、奴は何処にいたの?」
「…九喜の部屋の前。」
「チッ!よりによって神聖な僕の部屋にでるとは、黒い悪魔め…痛⁉︎」
いつもより声のトーンを落としてシリアスムードを作る十楽寺にすかさず奈々美が突っ込みの平手打ちを打ち込んだ。
「なんでそんなに頑なに見せないのよ。雇い主はこっちでしょ?要求に応えなさい!」
じとっとした目で見つめる八重に、レイは静かに首を振った。レイのつれない態度に、八重が眉間に皺を寄せる。
「だいたいアンタ達胡散臭いのよね。あのタヌキ野郎、妖怪退治に関しての腕は認めるけど、他の事はイマイチ信用出来ないわ。確かにアンタ達に頼む様になってからうちの業績はずっと右上がりだけど、何かが違う気がする。」
「……。」
詰め寄る八重を見て、レイは顎に手を当てて首を傾げた。その「さあ?」とでも言いたげな態度に更に八重の機嫌が悪くなった。しかし先程のように詰め寄らず、溜息を吐いて少し落ち着くと、静かな声でレイに語りかけた。
「百歩譲って見せられないのはわかるわ。こちらももしあの社の中を見せて欲しいと言われたら例え相手が誰であれ断るもの。でも理由くらい教えてくれても良いんじゃない?」
「…。」
真剣な面持ちで見上げて来る八重に、レイは困ったように少しだけ表情を和らげた。何か話してくれる気になったのかと期待する八重に応えるように唇を薄っすらと開ける。
「………。」
「…は?」
「………。」
「…。なに今の。まさか口パク⁉︎意味わかんないんだけど!おちょくるのもいい加減にしなさいよ!」
「ハイハイそこまでにして下さい八重さん!レイちゃんに悪気はないんです!」
レイの肩を乱暴に掴んで揺する八重を、部屋から出てきた十楽寺が制した。手には道具一式が入っていたバックが握られている。八重がキッと十楽寺を睨む。
「随分早いじゃない。まだ一時間も経ってないわよ。前回だってもう少し時間がかかったわよね?もう終わったわけ?」
「うちの護摩供養はウルトラハイスピード護摩といいまして、忙しい人にやさしい超最速で祈祷が出来る手法を独自に編み出し──」
「何よその適当なネーミング!こう見えても私はある程度祈祷の知識はあるのよ?護摩には強大な効力があるけど、幾つもの行程を終えないと意味がない事くらい知ってるの!」
「いやあだからそれを独自な方法で短縮してまして…。」
「どうやってよ!」
「そ、それは企業秘密って事で勘弁してくださいよう。報酬はまた次の三ヶ月後で良いですから!」
そう言って八重から目を逸らし、そそくさと帰る準備をする十楽寺。その後ろ姿を睨んでいた八重だが、途中で諦めたのか睨むのをやめて一つため息をつた。
「ま、どうでも良いわ。やる事やってくれたら良いの。ただし、ここ三ヶ月で業績が少しでも落ちたら解雇よ!当然報酬も無しだからね!」
「わ、わかりましたって…。」
「ならさっさと帰りなさい。前回の報酬の三百万は迎えが渡すわ。」
八重はそう言い放つと二人を振り返る事なく歩き始めた。元来た廊下を戻り、エレベーターの前まで戻る。エレベーターが開くと、そこには来る時と同じ黒スーツの案内人が待機していた。手には小さな包みを持っている。それを見た十楽寺が顔をほころばせた。
「いやあ毎度どうもありがとうございます~。どんなに不信がっていても、一度した約束は絶対に守ってくれる八重さんのそういう所、僕大好きです!」
「ゲンキンな性格ね。佐藤、出口まで送って差し上げて。」
「あ、いつもすみませんねえ。お見送りまでして頂いちゃって悪いなあ。」
「こんなのが出入りしてると思われたら五菱の沽券に関わるわ。人目に付かない様に慎重に出口まで送るのよ。」
「畏まりました。」
「そ、そういう事はもう少し小さな声で言ってくださいよ…。」
「いいからさっさと帰りなさいよ。ほら!」
そう言うと八重は脱力気味に抗議する十楽寺と無関心なレイの背中を押して無理矢理エレベーターに押し込んだ。エレベーターが閉まる瞬間、八重が意地悪な笑みを浮かべて十楽寺に声をかける。
「じゃあね十楽寺先生。次回もお待ちしてますわ。」