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当ブログは管理人、三枝りりおのオリジナル作品を掲載するブログです。
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『昨年、ストーカー被害件数がストーカー規制法制定以来最高値を記録しました。今年に入ってからもストーカー殺人が四件も起きている現状です。ストーカーの実態とは一体どんなものか、本日は犯罪心理学専門の先生をお招きしてお話をお聞きしたいと思います。……』
「ストーカーねえ…。それより島田、今日の合コンどうする?」
「……。」
「…島田、おい聞いてるか?おーい。」
「…え、ああ。悪いなんだっけ?」
いけない、ぼーっとしてしまった。慌てて携帯から顔をあげる。突然鮮明に聞こえ始めたテレビの音と同僚の声に昼休憩中だった事を思い出した。最近はこういう事が増えてきた。彼女の事が気になって仕事も手につかないのだ。
「なに携帯みてにやけてんだよ。新しい彼女?」
「いや、まだそういうんじゃ…。」
「まだって事はイイ感じって事かよ!んだよ彼女と別れて落ち込んでるって聞いたから合コンセッティングしてやったのに!」
「悪いな。今はそういうのいいよ。今日も早めに帰るから。」
合コンで適当な女性を見つける気にもならない。早く退社してあのバーに行きたかった。まるで麻薬中毒者だと自分でも思う。密かに盗み見て買った彼女とお揃いの携帯を見るだけでにやけてしまうほど重症だ。と言っても、彼女の連絡先どころか俺の通話履歴には殆ど同じ人間の名前しか載っていないのだが。しかし、もう半月ほど彼女に逢う為だけにバーに通っているというのに未だに声をかけられない自分に嫌気がさしてくる。
今日こそは何かアクションを起こしたい。せめて目を合わせるだけでもいい、彼女に認識されたい。バーに着くとまずは彼女がいる事を確認し、気付けに一杯目を飲む。それからなんて話しかけようか俺は頭の中でシミュレーションを始めた。半月前に見かけてからずっと気になっていて…ってのは気持ち悪いな。昼間のニュースを思い出して思い留まる。ここは軽く君、一人?なんてのはどうだろうか。…少し軽過ぎる気がする。いや、でもここは少し軽いくらいの方が相手も変に警戒しないかもしれない。よし、言え、言うんだ自分。
「……すいません、彼女と同じものをお願いします。」
結局俺の口から出た言葉はそれだけだった。俺の勇気は所詮そんなものなのか。自己嫌悪に浸りながら、僅かに彼女が俺の事を気にしてくれる事を期待して彼女の様子を伺うと、彼女よりもバーテンダーが怪訝な顔をしてこちらを見た。
「本当にこちらでよろしいので?」
「え、は、はい。」
男の俺がカクテルを頼むのがそんなにおかしいのか?状況がわからずにいると、バーテンダーがさらに続けた。
「ノンアルコールのオレンジジュースですけど…。」
翌日、退社した俺は一目散にバーに向かう為新宿行きの電車に乗り込んだ。昨日の事を思うと足を早めずにはいられない。あの時俺は確信した。彼女はこのバーが気に入って連日通っていたわけではないのだと。毎日彼女が頼んでいたのはただのジュースだったのだ。そして考えれば彼女は決まって俺よりも前にバーにいて、俺よりも後にバーを出ている。毎日二時間以上あのバーでひたすらジュースだけ飲んでいるという事になる。きっと誰かを待っているのだろう。それもあのバーでなければならない理由があるんだ。ヤバい仕事という事も考えたがそれ以上にそれだけ彼女を待たせる相手がどんな人物か知りたくてたまらない。胸が締め付けられるような息苦しさに襲われながら俺はバーに入った。
「いらっしゃいませ。」
毎日来ていて流石に覚えられたらしく、何も言わずともウイスキーのロックが前に出された。俺は泥酔しては話にならないので何時もよりペースを落としながら酒を飲む。俺がどんな気持ちでいるかも知らず、彼女はいつも通り美しくそこにいた。ただ花を愛でるように彼女を見つめてきたが、これからその彼女の別の面を知れるのだ。嬉しさと共に、あの人形のような美しい顔に別の表情が浮かぶ事に悲しみを感じ、そして彼女に会うであろう人物に強い怒りを感じた。感情の激流に飲み込まれないように酒で自分を抑えながら、ひたすらにその時を待つ。
やがて十一時を回った頃、バーに一人の男が入ってきた。来客の度逐一確認していたが、その男は迷いなく彼女に近づいた。そして今まで一切人に興味を示さなかった彼女が男の方を向いたのだ。来た!男は笑顔で彼女の横に腰かけた。
「レイちゃんお疲れ様!連日ごめんね?この仕事終わったらなんでも買ってあげるから!」
「……。」
こんな男を彼女は毎晩待ち続けていたというのか。男は二十代半ばに見えるが、黒いワイシャツにヒョウ柄のスカーフをしてヘビ柄のズボンをはいていた。顔はそこそこだが、容姿といい言動といいホストだろう。軽そうな話し方でいやに馴れ馴れしく、二人が気のおけない仲であることは明白だ。嫉妬に頭が沸騰しそうになるのをなんとか抑え、頭を整理する。そうだ、有益な情報も得られたじゃないか。男は彼女を『レイちゃん』と呼んだ。本名か、あだ名か。それだけでも大きな進展じゃないか。呼ばれた彼女は少し迷惑そうな顔で男を見ている。
「もーなんでそんな顔するの?あ、お腹空いたの?じゃあ早く帰ろ!レイちゃんの夕飯用意してあるからね。今日は僕がごはん炊いたんだよ!」
「……。」
お前じゃなくて炊飯器が炊いたんだろ。何処と無く不安そうに眉をひそめる彼女に誇らしげな顔で自慢している男を怒鳴りたい。…と言うか、二人は同棲しているのか。
「え、いらないの?信用ないなぁ…。じゃあ何?」
「……。」
「どうしたの?……うわ!れ、レイちゃん帰ろう!お勘定お願いします!」
崖から突き落とされたような絶望に頭が真っ白になっていると、彼女が男の袖を引っ張りながら俺を見た。それに気づいた男は俺の方を見るとひどく驚いた顔をして慌てだした。そんなに酷い顔をしているのか。この場にいる気にもならず、俺はそっと席を立ちトイレに入った。
「……ひでえ顔。」
鏡には、酒を飲んでいたというのに顔面蒼白の落ち窪んだ目をした男が映っていた。なるほど、こんな顔に凝視されていたら逃げたくもなる。自傷気味に笑ってトイレを出ると、二人の姿は既になく、後悔と虚無だけが残っていた。
今まで幸せな気持ちで通っていたバーまでの道のりが、今日は酷く険しく思える。あれ程望んでいた彼女からの視線。それは思っていたよりもずっと虚しいものだった。それなのにまた今日も彼女の元へ通う俺は被虐性愛者かもしれない。…なんて、ただ単純に諦めきれないだけだ。必死に自分を慰めながら歩く。初めは声をかける気もなかったのだ。その頃に戻ったと思えばいいじゃないか。俺はただ彼女が眺められればそれでいい。自分にそう言い聞かせながらバーのドアに手をかけた時、不意に肩を叩かれた。
「お兄さん、ちょっといいですか?」
若い男の声に振り返ると、昨日見たあのホスト男がニコニコしながら立っていた。驚いて反射的に身を引くと、男は慌てて手を離した。
「ああ驚かせちゃってごめんなさい。」
「な、なんですか貴方。何の用です。」
ほぼ初対面の人に随分とつっけんどんな態度をとってしまった。だがこの男はいけ好かない。俺に何の用だ?こんな見た目だ、昨日のことで因縁でもつける気だろうか。
「いやあここだとちょっと言いにくい話でして…。ついてきてもらえませんか?」
「は、はあ?私はこれから用事が……」
「ああ、レイちゃんならバーにはいませんよ。」
男の確信を持った言葉に手が止まる。まるで罪が暴かれた犯罪者のように全身から汗が噴き出した。
「な、なんの事ですか。俺は別に…!」
「それ以外の用事なんてないですよね?毎晩仕事が終わるとすぐにバーにやって来てはレイちゃんの前に座り、2時間以上ずっと見つめながら酒を飲んでるじゃないですか。」
ばれた。ばれたばれたバレタ!全身がカッと熱くなり急激に冷える。こいつは全部知ってる。人通りの少ない小さな路地で男は懐に手を入れながら微笑んだ。
「ついてきてくれますよね?」
その意味あり気な動作に俺は懐の中に凶器があると確信した。びびった俺は頷くことしかできなかった。
車に乗せられて三十分。民家もなく、誰もいない河川敷に連れて来られた俺はこの世の終わりの様な絶望感に晒されていた。ホストだと勝手に思っていたこの男、ヤクザだったらしい。ヤクザの女に手を出した愚かな男が拷問されるというのはドラマだけの世界だと思っていた。
「そっちに歩いてもらえます?」
「は、はい…。」
「あれ?なんか急に大人しくなっちゃったね。車酔いしました?」
こんな状況でなにを冗談言ってるんだこいつ。ふざけた奴だと思うがそこが余計に恐ろしい。素直に謝ってなんとか逃げ出さなくては。
「…あの、ホント申し訳ありません。ただ見てただけなんです。もう彼女には二度と近寄らないんで、許してもらえませんか?」
「え?ああ、心配しなくても二度とそんな気起こらない様になりますよ!大丈夫です!」
笑顔でVサインを出すこの男が悪魔に見えた。あくまでただで返す気はないという事だろう。いや、そもそも生きて返してもらえるのだろうか。死刑台に自ら向かう様にふらつきながら歩いていると、薄明かりの中誰かが立っているのが見えた。二人いる…一人は背が小さい。もう一人は、……彼女だ。
「(暗くてほとんど見えないのに、なんで俺はわかるんだ?)」
「九喜、準備終わったよ。」
「ありがとう奈々ちゃん!助かったよ~。」
「い、今の声…子供?!なんで子供が…。」
「子供じゃない!高校生だし!」
「まあ詳しい事は後で!」
立ち止まった俺の背中を男が押したせいで草むらに倒れかけた。状況がわからないでいる俺はそのまま前に二、三歩踏み出した位置でなんとか頭を整理しようとする。男は俺を放って地面に何かすると、彼女と少女の元に駆け寄ったようだ。
「よくすんなりついて来てくれたね。」
「うん。こうやってジャケットからミラクルヘヴンステッキを見せたらね。こういうの一回やってみたかったんだ~。」
ヘラヘラしながら男は俺にしたように懐を探ると、小さなおもちゃらしき物を取り出し、その先端を引っ張てステッキ状にした。ようやくこの状況に目と頭が慣れた俺は、どうもこれがヤクザによるリンチではないと気付いた。先程までの緊張が一気に解け、同時に怒りがふつふつと湧き出す。
「バッカみたい。」
「そんな事言わないでよー。それじゃ、手筈どおりにお願いね。」
「わかってる。」
「おい!こんな所に連れてきて一体なんの真似だ!子供の悪ふざけにしては度が過ぎるんじゃないか!?」
「あららもう元気になっちゃった。じゃあ頼んだよ奈々ちゃん!」
男は少女の肩をポンと叩くと数歩後ろに引いて何かつぶやき出した。異様な雰囲気に少し気圧されるが、ここで怯んだらこいつらの思う壺だ。
「ナ…ンダ……バザラ……」
「な、なにブツブツ言ってるんだ?今なら警察には言わないでおいてやる、早く元いた場所に帰してくれ!」
「ケーサツに言われて困るのはアンタの方なんじゃないの?この変態。」
「な!?君!大人に向かってなにを言うんだ!俺はただバーで彼女を見ていただけで…。」
「彼女?…はあ。」
少女と彼女が顔を合わせ、二人とも呆れた顔をした。何が言いたいんだこの二人は。
「そっちじゃなくて。おっさん最近まで白鳥瑞乃って女の人をストーカーしてたでしょ。」
「えっ……!」
「毎晩彼女が帰宅する時間に家の前うろついたり、留守電に悪口吹き込んだり。何度着拒しても直ぐに新しい携帯でかけてきてさ、マジどんだけ暇なんだよおっさん。」
「な、…なんで知ってるんだ!お前ら何もんだ!?」
「アタシ達は探偵だよ。彼女の父親の白鳥健治っておっさんに依頼されて調べてたの。アンタの行動は全部尾行して調査済みだよ。まあ、途中からはパターンがわかったから退社以降しか尾行してなかったけどね。レイちゃんが毎晩バーにいたのはアンタを監視するため。でも、昨日九喜の面が割れちゃったから急遽予定変更したんだけどね。」
目配せされた彼女は一ミリもその美しい顔を崩さずに頷いた。その動作に、俺の中の何が外れた。
「…アイツが突然別れるなんて言うからだ。結婚の準備までしていたってのに他の男が出来たとか抜かしたんだぞ!裏切りだ!アイツは人形みたいに俺の言う事を聞いてれば良かったのに!悪いのは瑞乃だろ!!」
「そうやって人をモノ扱いするからじゃん。彼女から聞いたけど、ちょっと連絡取れないだけで何してたかどこ行ってたか何度も聞いたり、酷いと叩いたりしたんだってね。カレシ出来たってのは嘘で単純にアンタみたいなキモ男から逃げたかったんだって。ま、トーゼンだよね。」
「この…!子供だからって言わせておけば!っ!?」
怒りに任せて少女に掴みかかろうとしたのに、数歩進んだ所から何かに阻まれた。しかし周りを見ても何もない。苛立って無理に動こうとするが小指一本分すら進むことが出来ない。
「クソ!!なんだよこれ!どうなってんだよ!!」
「即席のケッカイだよ。真円にはそういう力があるんだってさ。そこにレイちゃんが手を加えてるらしいけど。九喜の術が完成するまで逃げられないようにね。」
そう言って少女が地面を指差した。よく見ると地面に何か白い線が引いてある。線はぐるりと俺の周りを丸く囲っていた。こんなもののせいで俺は動けないのか?ふざけてる!
「結界だと?なんなんだよそれ!大体探偵ならなんでわざわざ全部教えてくれるんだよ!」
「それは僕達がただの探偵じゃないからです!」
後ろに立って何か唱えていた男が急に声を上げた。見たこともない複雑な形に手を組んでいる。さっきまで身体を支配していた怒りが薄れ、代わりに相手が何者かわからない事と動けない状況に恐怖が全身をかけた。
「時間稼ぎありがとう奈々ちゃん!ナウマク・サウマンダバザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カンマン!」
「だから何を……っ!?」
今度は進めないだけじゃなくて全身が硬直した。それどころか声まで出ない。まるで金縛りだ。
「ごめんなさい、苦しいですよね。これは不動金縛りと言って人間ごと妖怪にかける束縛術なんです。」
「…は、……ぐ……っ!」
「今回はよくわかんない短縮術使わないんだね。」
「いやあ、人間相手だから段取り踏んできちんとかけないと。力加減間違って絞め殺しちゃったら元も子もないからね…。」
「サラッと怖い事言うなし!」
なんなんだこれはどう言う事なんだ!!目の前で繰り広げられる会話に全くついていけない。と言うか息も上手くできなくて辛い。
「おっと、人間にあんまり長い事かけておくと危険なんだった。どうしてこんな事してるか手短に教えてあげますね。貴方は妖怪に取り憑かれてるんです。本来白鳥さんからは事を公にしたくない為に僕達に貴方の素行調査させ、証拠を突きつけて交渉するつもりだったそうです。僕達も初めはそのつもりで尾行してました。でも、行きつけのバーでレイちゃんを見つけてからの様子を知って貴方が妖怪に憑かれてると気づきました。」
「……。…ど…いぅ…こと、だ……?」
「驚いた。術にかけられてても喋れるんですね。レイちゃんを見つけてから貴方は毎晩レイちゃんに会う為にバーに通ってましたね。その時間はどんどん長くなり、それに比例して彼女への嫌がらせも減った。おかしいと思いませんか?今まで其れ程執着していた相手を忘れて見ず知らずの人間に心奪われるなんて。」
「そ、れは……彼女が……美しい…から…。」
男が何を言いたいのか、俺はもう気づいていた。しかし、気づきたくないでいるもう一人の自分が声を絞り出す。
「まるで火に寄ってくる虫のように。現世の妖怪は弱いからより強い存在に惹かれる物がいるんです。力を取り込んで強い存在になろうとね。人間に憑いた妖怪は宿主と一体化しながら操り、近寄ろうとする。今の貴方みたいに。」
何を馬鹿な事を言うんだ。俺は、俺は彼女が欲しいだけだ。彼女が俺の理想とする人形の美しさを持っているから。前の恋人の事など忘れるくらいに彼女に惚れているだけだ。
「そこで僕達のもう一つの仕事、妖怪退治をしてあげようと思いまして。普段なら百万くらいとるんですが、今回は出血大サービス。無料で貴方から綺麗さっぱり妖怪を取り除いてあげますよ!」
黙ったまま無機質な瞳で俺を見つめる彼女に手を伸ばす。身体が悲鳴をあげるが構わない。俺は、俺は…。
「っ!やばい、もう完全に一体化しかけてるのか!奈々ちゃんは危ないから車に戻って!」
男の声に少女が車の方に駆けていくがそんな事は関係ない。彼女以外のすべてがどうでもいいのだ。動かない身体と訳がわからない結界に阻まれて上手く近寄れない俺と彼女の間に男が立ちはだかった。
「邪魔をするなああああああ!!」
獣の様な咆哮。いや、俺の声だ。およそ人間が出せるとは思えない様な恐ろしい声に俺は戸惑った。一体俺に何が起きているんだ。目の前の男が先程とはうって変わった獣の様な鋭い眼光で俺を見据えるとあのステッキを振りかざした。
「あまねく諸仏に帰命し奉る。金剛界の主尊大日如来よ、独鈷、羯磨、摩尼、蓮華と共に光明を差し伸べたまえ!」
ステッキが輝き始める。一体どんなトリックなのか、直視できない眩しさだ。暗闇の中で突然光で照らされたせいか光に対して異様に嫌悪感を覚える。しかし、ここで引き下がる気にはなれなかった。俺は訳も分からずただひたすら彼女を求め、目の前の男を突き飛ばそうと腕を伸ばした。男に手を伸ばした時、自分の腕に愕然とする。
「なんだ…っ、これ……!?」
これは本当に俺の腕なのか。いや、人間の腕なのか。本来の二倍にも膨れ上がり、いく筋もの青筋が走ってまるで腕じゅうにミミズ腫れが出来ているようだ。なのにまるで痛みも重みも感じず、それどころか普段より感覚が鋭敏になっている気がする。これじゃあまるで…。
「ばけ…もの……。」
「大丈夫です。すぐに戻りますからっ…!」
腕に気を取られた瞬間、左側頭部にガスッという衝撃を感じたと共にまるで何かが体から消えたように力を抜け、俺は地面に倒れこんだ。脱力感と共に薄れていく意識の中で、俺を見つめる灰色の瞳だけが見えた。
「お兄さーん。ちょっと、お兄さんてば!」
上半身を揺すられる振動と男性の声にハッと目が覚めた。あのまま外で寝ていたのか?周りが薄暗いことに気づいて自分が屋内にいると気づいた。状況を知る為に声の主を見ると筋肉隆々の男性がドレス姿で立っていてぎょっとする。
「ちょっと、今私の姿見て引いたでしょ!」
「あ、い、いえ…。…あの、昨日の記憶があまりないんですが、ここはどこでしょうか…?」
「あら、本当に覚えてないのね。俗に言う新宿二丁目よ。このお店はアタシが経営してるバーなの。」
ショートボブのその男性、いやそのニューハーフはカウンターに戻るとタバコに火をつけながら状況が飲み込めない俺をみて昨日の俺の様子を語り始めた。
「お兄さんたら、ウチに来た時は既にべろべろでね、アタシ止めたんだけど聞かずに浴びるようにお酒飲んで潰れちゃったのよ。タクシー呼んであげようと思ったんだけど一人だし、住所聞ける状態じゃないから仕方なくここで休ませてあげてたの。」
「は、はあ…。」
ニューハーフの語る内容と俺の記憶は明らかに違う。確かに身体は怠いし頭も痛いが酒を飲んだ覚えは無い。昨日はバーに入ろうとした所をあの妙な男に止められて、河川敷に連れてこられて俺の秘密を暴露された筈だが…。それに結界とか金縛りとかで体が動かなくなって、腕が…。そこまで思い出して自分の腕を見た。そこにはなんの異変の痕跡もない。よく考えれば俺の記憶の方が余程夢みたいだ。どこかで飲んで記憶が飛んだのだろうか。
「尋常じゃない様子だったわよ。いったい何があったの?失恋?」
その言葉に彼女の姿が浮かんだ。まるで作り物のような美しい彼女。だが、昨日まであんなに頭を支配していたその存在は水に滲ませたようにぼんやりとしてしまっている。突然口もきいたこともない、ただバーで見かけただけの人間に恋い焦がれていた事が馬鹿馬鹿しくなった。妙に可笑しくなって苦笑を返すと彼の言葉に頷いた。
「ええ。どうやらそうみたいです。でも急に馬鹿らしくなっちゃいました。ご迷惑おかけしました。」
「そう、良かったわ。人生そういう時もあるわよね。さ、もう始発が出る時間よ。一旦帰ったら?」
「はい。ありがとうございます。あ、お代は…?」
「いーのよ。今日は初回って事で特別ナシにしてあげる!」
「え、でも…。」
「辛い時はお互い様!その代わりまた来て頂戴。次は頑張りなさいよ!」
「あ、ありがとうございます…。」
ゾッとするウインクをされ、申し訳ない気持ちになりながらも承諾してしまった。なんて心の広い人なんだろうか。押し出されるようにして店を出ると、白んだ空に照らされた見慣れぬ風景が広がっていた。飲みすぎたのに妙に早朝の空気が心地よく感じる。朝日に目を細めながら俺は駅に急いだ。
「…これでいいの?九ちゃん。」
「バッチリだよ!さっすが三子ちゃん。俳優…じゃなくて女優になれるね!」
島田の出て行ったバーの厨房から十楽寺とレイがひょっこり顔をのぞかせた。十楽寺はニコニコと褒め言葉を言い、レイは小さく拍手を送っている。先程まで島田の相手をしていた三子は困った顔でタバコを吸う。
「調子良いんだから。よくわかんない嘘付くのにウチの店使わないでよね?」
「だって本当の事あの人に伝えても面倒な事になるだけだし…。こんな事三子ちゃんにしか頼めないんだよぉ。でもありがとね?」
「ヤダもう上手いんだから!」
「ぐふっ!」
上目遣いでお礼を言った十楽寺は三子に肩を思い切りはたかれてカウンターまで吹っ飛んだ。十楽寺がカウンターに腰をしたたかに打ち付けている事など気にもとめず三子は体をくねらせて照れている。
「アタシ九ちゃんみたいな童顔ホスト系ってタイプじゃないんだからね!でもそういう不意打ち卑怯よ!」
「イタタ、そっちも不意打ちは卑怯だと思うよ…。」
「あら、それよりナナちゃんは?一緒じゃないの?」
「……。」
「二人ともちょっとは心配してよー!」
騒ぐ十楽寺を無視してレイが眠るジェスチャーをしてみせた。家で寝てるといいたいらしい。
「ふふん、うちの子にあんまり夜更かしさせられないからね!先におうちに返しました!」
「なんで偉そうなのよ…。てかよく言うわね、昨日夜中に連れ回したんでしょう?」
「だって不動金縛って時間かかるからその間島田さんの気を引いててもらいたくて…。レイちゃんには難しいもんね?」
こくりと頷くレイ。変装時以外は口を一切きかないレイは島田の気を引くのは難しいと言うことで奈々美が駆り出されたのだ。
「しかし昨日はびっくりしたよねー。普通の人間なら動けないどころか息も満足に出来なくなる術なのに動けるんだもん。人と妖怪が一体化するとそこらの妖怪よりずっと強くなっちゃうんだから。これだから人に取り憑く妖怪は厄介だよ。」
「でもどうせそのおもちゃで殴って倒したんでしょ?つくづくむちゃくちゃな設定ね。」
半ば呆れ気味に三子が十楽寺のステッキを指差した。どうやら三子は十楽寺の妖怪退治という職業に半信半疑でいるようだ。
「マジカルヘヴンステッキですー!これには密教最強の武器、金剛杵と同じだけの力があるんだからね!」
「ハイハイ。それにしても人間に取り憑くなんて妖怪って迷惑な存在ねえ。」
「全部じゃないよー?中には強い欲望を持った人に取り憑いて力を増す奴がいるってだけ。島田さんは彼女に振られた怒りが原因かな?実態のない妖怪は人に憑けば実態を持てるしね。なんでか知らないけど妖怪には強い者に惹かれる本能があるみたい。レイちゃんに惹かれたのも多分そのせいだよ。だからマジカルヘヴンステッキで殴ってからは目が覚めたんだ。」
「あら、それじゃレイちゃんてなんなの?」
レイの後ろに腕を回して肩を組むとニッコリ笑って口元に人差し指を当てた。レイもその十楽寺の様子を見て真似る。
「ふふふ、それはヒミツだよ。ねえレイちゃん?」
二人の仕草を見た三子は大して興味もなさそうに一つあくびをするとタバコを消した。
「まあ良いわ。あんた達も家に帰んなさいよ。九ちゃんの所為で朝まで起きてたからアタシ眠いのよ。一回店閉めて寝たいの。」
三子の言葉に十楽寺が窓の外を見る。もう太陽が昇り出していた。ビルの間から見える空には幾重にも色を重ねた複雑で美しい朝焼けが広がっていた。
fin