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Panta rhei

当ブログは管理人、三枝りりおのオリジナル作品を掲載するブログです。

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おいでよ!十楽寺探偵事務所 第二夜(2)

「なんでそんなに頑なに見せないのよ。雇い主はこっちでしょ?要求に応えなさい!」

 じとっとした目で見つめる八重に、レイは静かに首を振った。レイのつれない態度に、八重が眉間に皺を寄せる。

「だいたいアンタ達胡散臭いのよね。あのタヌキ野郎、妖怪退治に関しての腕は認めるけど、他の事はイマイチ信用出来ないわ。確かにアンタ達に頼む様になってからうちの業績はずっと右上がりだけど、何かが違う気がする。」

「……。」

 詰め寄る八重を見て、レイは顎に手を当てて首を傾げた。その「さあ?」とでも言いたげな態度に更に八重の機嫌が悪くなった。しかし先程のように詰め寄らず、溜息を吐いて少し落ち着くと、静かな声でレイに語りかけた。

「百歩譲って見せられないのはわかるわ。こちらももしあの社の中を見せて欲しいと言われたら例え相手が誰であれ断るもの。でも理由くらい教えてくれても良いんじゃない?」

「…。」

 真剣な面持ちで見上げて来る八重に、レイは困ったように少しだけ表情を和らげた。何か話してくれる気になったのかと期待する八重に応えるように唇を薄っすらと開ける。

「………。」

「…は?」

「………。」

「…。なに今の。まさか口パク⁉︎意味わかんないんだけど!おちょくるのもいい加減にしなさいよ!」

「ハイハイそこまでにして下さい八重さん!レイちゃんに悪気はないんです!」

 レイの肩を乱暴に掴んで揺する八重を、部屋から出てきた十楽寺が制した。手には道具一式が入っていたバックが握られている。八重がキッと十楽寺を睨む。

「随分早いじゃない。まだ一時間も経ってないわよ。前回だってもう少し時間がかかったわよね?もう終わったわけ?」

「うちの護摩供養はウルトラハイスピード護摩といいまして、忙しい人にやさしい超最速で祈祷が出来る手法を独自に編み出し──」

「何よその適当なネーミング!こう見えても私はある程度祈祷の知識はあるのよ?護摩には強大な効力があるけど、幾つもの行程を終えないと意味がない事くらい知ってるの!」

「いやあだからそれを独自な方法で短縮してまして…。」

「どうやってよ!」

「そ、それは企業秘密って事で勘弁してくださいよう。報酬はまた次の三ヶ月後で良いですから!」

 そう言って八重から目を逸らし、そそくさと帰る準備をする十楽寺。その後ろ姿を睨んでいた八重だが、途中で諦めたのか睨むのをやめて一つため息をつた。

「ま、どうでも良いわ。やる事やってくれたら良いの。ただし、ここ三ヶ月で業績が少しでも落ちたら解雇よ!当然報酬も無しだからね!」

「わ、わかりましたって…。」

「ならさっさと帰りなさい。前回の報酬の三百万は迎えが渡すわ。」

 八重はそう言い放つと二人を振り返る事なく歩き始めた。元来た廊下を戻り、エレベーターの前まで戻る。エレベーターが開くと、そこには来る時と同じ黒スーツの案内人が待機していた。手には小さな包みを持っている。それを見た十楽寺が顔をほころばせた。

「いやあ毎度どうもありがとうございます~。どんなに不信がっていても、一度した約束は絶対に守ってくれる八重さんのそういう所、僕大好きです!」

「ゲンキンな性格ね。佐藤、出口まで送って差し上げて。」

「あ、いつもすみませんねえ。お見送りまでして頂いちゃって悪いなあ。」

「こんなのが出入りしてると思われたら五菱の沽券に関わるわ。人目に付かない様に慎重に出口まで送るのよ。」

「畏まりました。」

「そ、そういう事はもう少し小さな声で言ってくださいよ…。」

「いいからさっさと帰りなさいよ。ほら!」

 そう言うと八重は脱力気味に抗議する十楽寺と無関心なレイの背中を押して無理矢理エレベーターに押し込んだ。エレベーターが閉まる瞬間、八重が意地悪な笑みを浮かべて十楽寺に声をかける。

「じゃあね十楽寺先生。次回もお待ちしてますわ。」

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おいでよ!十楽寺探偵事務所 第二夜(3)

「はー!疲れたー!五菱はやっぱり居心地悪いよね。八重さんも相変わらずな性格だし。ねーレイちゃん?」

 新宿に戻った十楽寺とレイはゆっくりと家の方へ向かって歩いていた。

「毎回祈祷の場に立ち会おうとするし、迷惑しちゃうよ。執念深くて勘がいいなんて、こっちからしたらこれ程厄介な相手はいないよねー。」

「……。」

「まあでもアレだけで三百万も貰えるならラッキーかな?奈々ちゃんへのお土産も買ったし、帰ったら三人でお茶にしようね!」

 こくこくと相槌を打つレイに笑顔で一方的に話し続ける十楽寺だったが、ふと目の端に見慣れた巻き毛を捉えた。レイから目を離して正面を向くと、家まであと数メートルという所だ。その道を奈々美がこちらに全速力で駆けて来る。

「あれ、奈々ちゃん?わ、もしかして外までお出迎え?僕感動だよ!さあ、僕の腕の中に飛び込んでおいで!」

 真っ直ぐに突っ込んでくる彼女に向かって腕を広げる十楽寺。しかし、奈々美は十楽寺の横すれすれを駆け抜け、隣に立っていたレイに勢いよくしがみついた。一瞬の間、間抜けな体制で立ち尽くしたままだった十楽寺が苦笑いをしながらため息をつく。

「ですよねぇ…。」

「何がですよねだ!遅いんだよ帰ってくるのが!!」

「いつも通りのつもりだったんだけど…。あ!もしかして僕たちがいなくて寂しかったの?もう、可愛いとこあるなあ!」

「ちがう!都合の良い解釈すんなバカ!」

「えへへ、ツンデレなんだから!」

 十楽寺は納得行かなそうな顔をしている奈々美の頭を優しく撫で、家に向かって歩き出す。レイも奈々美を連れて十楽寺について行こうと足を踏み出すが、思い切りホールドされていて前に進めない。疑問に思って下を見ると、奈々美が未だにしがみ付いたまま俯いている。促すつもりで軽く肩を叩くが、一向に奈々美は顔を上げない。二人の様子に気付いた十楽寺が振り返った。

「どうしたの?早く帰ろうよ。こんな所で突っ立ってたら目立っちゃうよ。」

「…。」

 尚も口を閉ざす奈々美の様子に、十楽寺はゆっくりと近寄ると中腰になって視線を合わせて優しく微笑む。

「…何かあったの?」

「……。出たんだよ、アイツが。」

 奈々美のその言葉に十楽寺の顔色が変わる。その一言で全てを悟ったのか、十楽寺が今までになく神妙な面持ちで家を仰ぎ見た。

「そっか…。わかった。」

 短く答えると、十楽寺はそのまま家に向かって歩き出す。レイも未だ不安そうな顔をした奈々美を連れて十楽寺に続いた。

 彼らの家は事務所の上、地上二階である。古いビルの中だけを改装したもので、内装はアパート二部屋分を繋げた様な広さだ。一行はまるで強敵を前にした様に厳しい面持ちで二階へ上がり、我が家の扉の前に佇む。家主である十楽寺が重々しく扉を開け、ゆっくりと玄関に足を踏み入た。二人もその後に続く。しかし部屋の奥へは行かず、三人は玄関で固まったままだ。十楽寺がじっと部屋の中の気配を探る。

「……。…物音はしないか。奈々ちゃん、奴は何処にいたの?」

「…九喜の部屋の前。」

「チッ!よりによって神聖な僕の部屋にでるとは、黒い悪魔め…痛⁉︎

 いつもより声のトーンを落としてシリアスムードを作る十楽寺にすかさず奈々美が突っ込みの平手打ちを打ち込んだ。


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おいでよ!十楽寺探偵事務所 第二夜(4)

「お前の部屋が汚いせいだし!ゴキブリ相手に黒い悪魔とかキモいんだけど!」

 そう、彼らが大真面目な顔をして対峙しようとしてたのは日本で最もポピュラーかつ嫌われている害虫、通称ゴキブリなのである。十楽寺は自分の頭をさすりながら奈々美の方へ振り返った。

「もう、叩かなくてもいいじゃない!そういう奈々ちゃんこそゴキブリが怖くて逃げて来たくせに!」

「は、はあ?!違うし!別にコンビニ行きたかっただけだし!」

 抗議する十楽寺に更にくってかかる奈々美。下らない言い合いを静観していたレイがふと十楽寺の部屋の前を指差した。黒い塊が十楽寺の部屋の扉に張り付いている。レイの指差す方向を見た奈々美が悲鳴をあげてレイの後ろに隠れた。

「きゃあああいるいるいる!早くなんとかして!」

「もう、最初からそう言えばいいのに。素直じゃないんだから!」

 そう言うと十楽寺はおもむろに鞄からあのおもちゃのステッキ『マジカルヘヴンステッキ』を取り出した。レイの後ろから奈々美が抗議の声をあげる。

「ちょっと!まさかそれで叩き潰す気!?それはマジでありえないから!」

「まさか!そんなグロい事しないよ!」

「じゃあどうすんの?」

「ふっふっふ…。密教の秘儀、真言の力を見せてあげるよ!」

 怪訝な顔をした奈々美と無表情のレイをよそに、十楽寺は得意げな顔で部屋に近づく。

「真言ってのは願いを叶えてくれる呪文みたいなものなんだ。家内安全から怨敵調伏まで、用途に合わせて沢山の真言があるんだよ。「~ソワカ!」とか聞いた事ない?」

「知ってるけど、それって妖怪とか姿のないものに使う奴じゃないの?」

「普通はね。でも密教は現世利益がモットー、つまり現実の生き物にも効果があるのだ!喰らえナウマク・サウマンダ・バザラダン・カン!!」

 真言を唱えながら十楽寺がステッキをゴキブリに向ける。するとステッキの先から小さな雷のような火花が弾けた。しかし身の危険を感じたのかゴキブリの方が一瞬早く逃げる。

「チッ!」

「外してんじゃん…。つかそれどういう構造になってんの?」

「フフフ、それは修行をした密教僧にしかわからないのです!ってそれよりどこ行った?!」

「……。」

 未だ玄関から動けない奈々美を後ろに庇いながらレイが部屋の中を指差した。

「僕の部屋に入ったの?最悪ー!」

 憤慨しながら十楽寺は自身の部屋に踏み入った。レイと奈々美もそっと部屋の入り口から顔をだして部屋の中を伺う。

「うわ…。」

「……。」

 そこは惨状というに相応しかった。床や机にブランド物の服が乱雑に放置されているだけでなく、カップ麺や飲み物の容器が適当に積まれている。しかもベットの上には食べかけと思われるポテトチップの袋が口を開けた状態で置かれていた。日頃の十楽寺の口ぶりから覚悟していた二人でさえ顔が青ざめた。

「神聖どころか魔窟じゃん!ゴキブリ飼う気かよ!」

「いやあ夜お腹空いてついついお菓子食べちゃうんだよね~。でも片付けるの怠いし。朝は時間ないから洋服出しっ放しにしちゃうしー。いてっ!」

「クズ!」

「いやいやそれ程でもないよ~。」

「褒めてねえし!片付けろよバカ!」

 レイに叩かれ、奈々美に暴言をぶつけられても笑顔を絶やさない十楽寺。苛つきが収まらない奈々美が更に文句をぶつけようとすると、突如部屋にカサカサという音が響いた。

「…っと、お説教は後で聞くよ。今はコッチが先だ、ナウマク・サウマンダ・バザラダン・カン!」

 バチバチ!と凄い音がしてカップ麺の容器が吹っ飛ぶ。煙をあげるカップ麺の裏から黒い塊がササッと逃げ出した。すかさずもう一撃与えるがゴキブリは華麗に小さな雷を避ける。

「チッ…。流石三億年前から存在してるだけあるな。」

「ノーコンかよ!」

「ち、違うもん!あいつが早いだけだよ!」

「もういいから普通に捕まえて捨ててきてよ。」

 奈々美とレイの冷めた目が逆に十楽寺に火をつけた。ぷくっと頬を膨らませて二人を睨む。

「何その目は!いいもん、呪術でも僕が凄いって事奈々ちゃん達に認めさせてみせるから!ナウマク・サウマンダ・バザラダン・カン!」

 バチバチ!

「ナウマク!サウマンダ!バザラダン!カン!」

 バチバチ!

「ナウマク!」

 バチバチ!

「死ねこの野郎!」

 ガス!

「最後物理じゃん!」

 更にめちゃくちゃになった部屋の真ん中で肩で息をしながら十楽寺はステッキを降ろした。当の害虫は元気に触覚を動かしながら正面の壁に鎮座している。

「頭に来た…。不動明王呪じゃ物足りないってわけ?いいよ、なら大元師法(たいげんほう)で勝負だ…。」

「いや九喜がノーコンなだけだし!てか何それ?」

 ブツブツと呟く十楽寺を見て、奈々美の質問に答えられそうにないと判断したのか、レイが手前の本棚から『毎日密教』という雑誌を取り、あるページを開いて見せた。

「たいげんすいみょうおう?」

 そこには『最高位の明王、大元帥明王に祈願する国家鎮護、敵国調伏の密教最高秘儀!かの有名な文永の役や弘安の役、更に日露戦争の際も用いられ、我が国を勝利に導いた最強の呪いです。朝廷以外では使ってはいけない最高法術なので、無闇に使用しない事。』と書かれている。読むうちにみるみる部屋の中が暗くなり、不思議に思って外を見ると、見た事もないような重たい暗雲が渦を巻きながら集まってくるのが見えた。次いで黒い雨が降り、暴風が窓をけたたましく叩く。町の人々も悲鳴をあげながら建物に駆け込んで行くのが見えた。奈々美の顔が青ざめる。

「最強の呪いって…。ゴキブリ相手に国ごと滅ぼす気かよ!ちょっと九喜!」

 地震も始まったのか、小刻みに振動する部屋の中で経を唱える十楽寺に訴えるが、十楽寺は歪な笑顔で全く聞く耳を持たない。

「ゴキブリなんて害虫は国家の敵…否、人類の敵!種族ごと滅してやる!」

「ゴキブリだけじゃすまないんだけど!今すぐやめて!」

 部屋の中はポルターガイスト現象でも起きているのか物が飛び交い始め、十楽寺の立っている所を中心にまるで嵐の中のように更にめちゃくちゃになっていく。流石に当のゴキブリも危機を察知したらしくパッと茶色の羽を開いて扉に向かって飛び立った。奈々美が今度は違う意味の声をあげる。

「逃げてるし!てかこっち来るー!!」

 奈々美はレイを盾にするようにしがみ付いた。しかし、レイの背中の向こうでバチバチという羽音が一瞬大きくなって消えた。レイが自分の横を通り抜けようとするそれをどこからか出した割り箸でつかむとそのままコンビニ袋に入れて口を縛ったのだ。その間わずか二秒の出来事である。

「う、うわ!」

 理解するのに数秒遅れて奈々美がコンビニ袋を持つレイから離れる。レイはコンビニ袋をぶら下げたまま未だ儀式を続ける十楽寺に近寄り軽く頭を叩いた。

「あいた!ちょっと君達さっきから叩きすぎ…ってそれ!レイちゃんが捕まえちゃったの?ズルい!」

「いやズルいとかじゃないし!いいからこの状況なんとかしろよバカ九喜!家が壊れる!」

 築何十年も経っているビルは外の暴風雨と地震でガタガタと激しい音を立て、今にも崩れてしまいそうに思えた。奈々美の言葉に、十楽寺は天井の揺れすぎて落ちそうになってる照明を見つめて呑気につぶやいた。

「どうせならこのまま続けて日本中のゴキブリ滅しちゃったらもう奈々ちゃんも怖がる事ないんじゃない?」

「人間も死ぬから!ふざけてないでさっさとやめろ!」


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おいでよ!十楽寺探偵事務所 第二夜(5)

『新宿区を中心に起きた原因不明の異常気象と地震は、16時現在完全に収まったようです。新宿区全体を覆っていた巨大な積乱雲は完全に消滅し、黒い雨も止みました。解説の林田さん、今回の黒い雨についてお願いします。』

『はい。まず、気象庁によりますと、黒い雨の主成分は未だ調査中ですが、少なくともウランやセシウム等の放射性物質は含まれておりません。皆様ご安心下さい。雨が黒くなった原因としては、おそらく積乱雲発生の際の上昇気流によって地上の塵や土が巻き上げられ、それらが混入したせいではないかと。とにかく非常に稀なケースでして……』

「いやあ、人間はわからない事ほど無理矢理理屈をこねたがるよねー!あれは地獄の雨だよ!人体に影響はないけど、現世の物質とは照合できないのに。」

「他人事みたいに言ってんな!どっかの誰かさんのせいで外壁がどろどろになってんだから掃除して来いよ!」

 数時間後、袖を巻くって掃除道具を持った奈々美が、のんびりとリビングでテレビを見ている十楽寺に怒鳴った。出掛けていたので窓は閉じていた為、部屋の中は無事であったが、窓も外壁もベランダも泥汚れで酷い有り様だった。

「えーそういうのは掃除が得意なレイちゃんに任せて一緒にテレビ見よーよ~。」

「アンタの所為なんだからちょっとは手伝えよ!それにレイちゃんはアンタの部屋片付けてる。」

「えー!なんでレイちゃんが片付けてるの!?それこそ僕がやるよ!」

「九喜がやったら一生綺麗になんないじゃん!汚いものは全部処分してって言っといたから。」

「そんなこと言って大事なものまで捨てられたら困るもん!…じゃなくて、ゴキブリ捕まえてくれたんだからレイちゃんはゆっくり休ませてあげなくちゃ!」

「本音だだ漏れじゃんか!心配ならさっさと壁掃除してから見れば?」

「えーじゃあ奈々ちゃんも一緒にやろーよー!」

「アンタはベランダ掃除だし!てかくっ付くなキモい!セクハラ!」

 十楽寺の部屋のゴミをまとめていたレイは、リビングから聞こえてくる二人の騒ぎ声をきいて汚れた窓の向こうの空を見上げた。先程のこの世の終わりのような雲は消え去り、平和で美しいオレンジ色が広がっている。その夕焼けを眺めながら、お土産のお菓子は夕飯の後にしようと考えた。

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おいでよ!十楽寺探偵事務所 第三夜(1)

 その人は美しかった。ただただ美しかった。

 彼女との出会いは、乗り換え地点の新宿でバーに入った時だった。歓楽街から少し外れた小さなこのバーはうるさい若者も居らず、日頃の仕事の疲れを癒すには絶好の場所だ。その日も同僚と別れ、荒んだ心を安酒で潤すつもりだった。だが、店に入った瞬間その思いは吹き飛んだ。彼女の姿を目にしたからだ。真っ白な陶器のような肌に、鼻筋の通った整った顔立ち。ダイヤモンドを擬人化したらこうなるのだろうか?美しいセミロングの髪の隙間から覗く灰色の瞳は長い睫毛に縁取られ、照明の明かりが反射してキラキラと輝いている。その美しい姿に圧倒され、俺は危うく目的を忘れてしまいそうになった。決して誇張表現ではない。実際、カウンターに座った彼女の横顔を見ただけで数秒は動けずにいたのだ。その日から俺は別の目的を持ってバーに通うようになった。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」

「ウイスキー。ロックで。」

 今日も彼女に逢う為にバーに入る。彼女はいつもカウンターの定位置に座っているから、俺は楕円形にカーブしているカウンターの、彼女から少し離れた席に座る。ここからだと自然に彼女が目に入るのだ。適当にグラスを見つめるふりをして彼女の顔を伺う。彼女は端正な冷たい表情を一ミリも崩さない。美しい。まるで人形の様に完璧だ。いや、並みの人形だって彼女には敵わないだろう。俺は彼女を肴に酒をあおった。自分でも異様なのはわかっていた。見知らぬ女性を盗み見ながら酒を飲むなんて。三十年生きてきて、結婚を考えた女性がいた俺でも、一言も話した事のない相手を見ながら酒を飲むというのは初めてだ。それだけ彼女が美しく、特別であるという事なのか。

 八時過ぎ、今日もバーに向かう。最初はただ彼女を見つめるだけだったが、最近は彼女がどんな人間なのか考える様になった。考えるというよりも妄想に近い。どこで何をしているのか、どうして突然現れ、そして毎夜このバーに通う様になったのか想像するのだ。容姿から初めはどこかの高級ホステスかと思ったが、ならこの時間にバーにいるのはおかしい。それに彼女はいつも黒い長袖に黒いズボンを履いていている。素肌が見れなくて残念、いやともかく水商売の女ではないのだろう。なら昼間の仕事か?モデルかもしれない。でもそれにしては変わった格好だ。渋谷や原宿系というか、どこかのヴィジュアルバンドの衣装をもう少し落ち着けた様な…。ともかく目立つ格好だ。一般的な職業ではなさそうだ。ではなぜ突然このバーに現れる様になり、それ以来毎晩ここに通うようになったのだろう?いつも一言も口を利かず、ただ淡々とカクテルらしき物を飲みながら時折携帯に何か打ち込むだけで、誰かに会いに来ている様子もない。…いや、しかし俺も一言も口を利かないでただ彼女を眺める為だけに通っているじゃないか。女性が一人で毎晩バーに通うなんて妙だ。もしかしたらナンパ待ち?なら俺にもチャンスはあるだろうか。……いや、何を考えてるんだ。そんなわけあるはずない。彼女からそんな下品な雰囲気はない。単純に店を気に入っただけかもしれないじゃないか。しばらく逡巡している間にいつの間にかグラスが増え、気づけば10時。このままでは終電を逃してしまう。俺は急いで勘定を済ませると店を出た。

「……。」

 翌日、日課の電話をかけ終えてからバーに向かう。この携帯も古くなったから新しくスマホに変えようか。そう思ってからふと彼女の使っていた黒いガラケーが浮かび、やはりもう少しスマホデビューを見送ることにした。


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